「不倫」というのは、
皆さんご存じの通り道徳的に容認されない不貞行為のことです。
ただ、そこに肉体関係・性関係があったにしろなかったにしろ、
既婚者が他の異性に目移りしたということ自体に
嫌悪感を抱く人も少なくはないでしょう。
不倫というのは、単純に
「背徳感を味わえるから」
「手に入らない相手だから燃える」
という単純な理由だけで激情に溺れるわけではありません。
特有の、燃え上がる心理的仕組みが揃っているのが
この「不倫」という行為なのです。
ではその「心理的仕組み」というのは具体的にどういったことなのかを
解説していきます。
既婚者が浮気(不倫)をする心理
不倫というのは道徳的に許されないと書いたとおり、
不倫をした人に対しては社会的制裁が科せられることもありますし
もし不貞行為の事実を配偶者に知られてしまった場合は
慰謝料を請求されることもありえます。
なぜ、そこまでして?と思われるかもしれませんが、
「そこまでしなくてはならないほどの背徳行為」だからこそ、
溺れるほどの不倫の恋愛というものが成り立ちます。
スリルとかいう単純な話だけではなく、
もっと複雑な心理の変遷によって成り立ちます。
不倫という「倫理に反する非道徳的行為」というポイント
非道徳的というのは、モラルに反しているということですね。
なぜかというと、不倫自体は配偶者に対する隠し事であるという
部分がまず大きい要素になります。
で、基本的に世間様には許されない行為です。
もしバレてしまうようであれば、
先述の通り家族を失う・お金を失う可能性も否定できません。
ところが、当事者たちは決まってそこから「目をそらします」。
意図的に目をそらすわけではなくて、ごくごく自然に、ほぼ無意識的に
目をそらします。
それは、「防衛機制」といって、人間は一人一人自分の中に
自分のストレスを軽くするために自然と行う、本能的なものなのです。
そんな現実問題に目を向けているよりも、とにかく「愛されたい」という
欲求に目を向けてしまい、快楽に溺れようとします。
ここでポイントになってくるのは、
「モラルを普段重視しやすい人ほど、愛や快楽・不倫に溺れやすい(周りが
見えなくなるほど不倫にのめりこむ)」という点です。
モラルを重視する人なら、不倫なんかしないんじゃないの?と思われそうですが、
実際はそういうわけでもありません。
「完璧主義はなぜうつになりやすいのか」でも記載した
「エス・自我・超自我」という心を構成する3つの機関を使って説明していきます。
超自我の要求ばかり呑んでいると、欲求不満になる
おさらいします。
心を最初にこの3つの機関で表したのは
精神分析学を創設したフロイトという人物です。
3つの機関というのはそれぞれ
「エス」、「自我」、「超自我」と呼ばれます。
エスは、とにかく欲求・本能の塊で、
快楽を求めるためにいろいろな要求を自我にしてきます。
超自我は超自我で「いや、自粛するべきだよ」
「立場をわきまえなさい」といったように
自我に倫理的規範を以て自分を制御しモラルを守るように要求します。
これらの要求を整理して、総合的な判断をするのが自我の役割です。
なんらかの要因によって(人の目を異常に気にする親に養育されたとか、
とにかく正しいか正しくないか・常識的か非常識かということばかりに
着目するような生活になった)
超自我が強いと、この倫理規範を守ることだけに気をとられ、
エス、つまり自分の本当の感情や沸き起こる欲求自体を蔑ろにします。
そうなると、自分が本当はどうしたいのか分からなくなったり
(そもそも自分のやりたいことが出来ないので、
何が本当にやりたいのかを考えなくなったり
やりたいこと自体がないかのように振舞うようになる)、
自分の本当の感情を押し込めて抑圧してしまいます。
それで万事解決、倫理規範に強い人間の出来上がり!というわけにもいかず、
押し込められた欲求や快楽への渇望というのはどんどん
大きくなっていきます。
なので、ひとたび快楽に溺れてもいいような状況
(好きだよ、と甘い声を囁いてくれる人)になると
一気に快楽へ向かってしまう場合が多いのです。
たとえば上の図のエス・自我・超自我の例でいうと、
「遊びまくりたいな~どっか行きたい!」というのが
エスの欲望だとすると、「勉強しなさいよ。しっかりした姿勢を見せないと
親にどうみられることやら」というのが超自我の要求です。
親に勉強、勉強と言われても楽しく勉強できればいいですが、
そうではなくただ超自我からの要求で「勉強できないと、みっともないよね」
なんていう気持ちで超自我のモラルを尊重しすぎてしまうのが
当たり前になってくるとします。
すると次第に、自分が本当は「たまには遊びたい」という気持ちを
持っているということが分からなくなり、
しまいにはエスの欲求が次第に大きくなっていき
「こんなところに縛られてたまるか」
「とにかく遊びまくりたいんだ!」という感情が強くなります。
そうして、そういう欲望が満たせるような環境や人の誘いで
ちょっとクラブに行ってみた、とか彼氏彼女ができた、とか
そういうきっかけがあると勉強そっちのけでそちらの快楽の方に
向かってしまいます。
超自我で自分の本来の欲求を押さえつけていた分、
欲求不満度は高まっているのでそこに一気に解放されるというわけです。
不倫や恋愛でも同じことがいえます。
恋愛でいえば
「ずっとつながっていたい!」
「ずっと愛されたい!たくさん求めて!ひたすらに甘やかして!」
「めちゃくちゃ好きって言いまくりたい!」
「もう仕事の責任も自分の責任も何もかも放り出して
この時を永遠に過ごしたい」
「とにかく四六時中、自分のことだけを考えていてほしい」
というような欲求を一気に満たそうとする働きが出てくるわけですね。
ですから見た目でしっかりしていそうな、まるで責任感の塊のような人が
実は不倫していたり、
「不倫なんか絶対ありえないでしょ!」と他人や有名人の不倫には
厳しい(つまりモラルには厳しい)人というのは
不倫に走るとひたすらに交際相手一直線になり情愛に溺れやすくなります。
不倫の入り口
基本的に、不倫に溺れる人でも最初は冷静なことが多いです。
ただ配偶者がいる人物の声掛け(好きだよ、とか近づきたい・愛してるなど)に
乗る・あるいは自分に配偶者がいるにも関わらずそういう声かけをする人というのは、
まず「愛に飢えている」人が非常に多いです。
既婚者がいても、その愛情不足が埋められない。
何か物寂しい感じがする。人生に何か張り合いがない気がする。
生きている実感がわかない・・・。
ですから、そういう「自分を愛してくれるかもしれない」人間に対しては
とんでもなく貪欲に、その人を求めようとします。
ですから最初は気にも留めていなかった人でも
「自分に対して本当の愛をくれる人かもしれない。この孤独感を生めてくれる
かもしれない」。
特に、自分で自分を埋める力がなく、他者に依存してしまう人ほど
こういう依存心を抱きます。
この依存心が、不倫に溺れていく入り口です。
不倫の愛が激情に変わってゆくのは必然
先述のとおり、不倫というのは「背徳感満載」だからこそ盛り上がります。
さらに、超自我が強い人・・・「モラルにうるさい人」や、「倫理道徳にこだわる人」、
人の失敗や非常識に厳しい人というのはそもそも燃え上がる素質があるということも
お伝えしました。
ただ単に「叶わない恋だからこそ燃え上がる!」というわけではありません。
なぜ不倫が燃え上がるのか?というところを、今度は防衛機制の観点から
説明します。
防衛機制とは
防衛機制とは、自分のストレスを回避するための心の機能のことです。
誰しもがこの防衛機制を持っています。
例えば「合理化」はもっともらしい理由や理屈をつけて物事を正当化することです。
よく取り上げられる例は「あの実が欲しい」と思っていても手が届かなくてどうやら
手に入らなさそうだと思ったとき、
「どうせあの実は渋くて味わっても意味のないものだ」と
自分の中で理屈をつけて、手に入らないダメージを
回避しようとする・・・などがあります。
つまり、実の実際の味は分からないけれども、
自分の心のダメージを軽減させるために
その実の価値をわざわざ下げるわけです。
「手に入らなかった」ではなく
「手に入れてもどうしようもないものだろう」と思うことで。
その他にも、反動形成・・・つまり
「自分の好きな子に対してイジワルする」など
自分の知られたくない欲求を隠すために、
正反対の行動や気持ちを抱えたり行動をとることで
自分を守ろうとするわけです。
これも防衛機制の一つですね。
その他にも
投影(自分の短所や悪い気持ちを相手の短所や悪い気持ちだと
思い込もうとする)、
抑圧(認めたくない衝動や欲求を意識下から無意識下に
押し込めフタをする)なども防衛機制になります。
防衛機制が、不倫の愛を激情に変える
ところで、不倫をしている人の
「あるあるセリフ」はなんでしょうか。
「ただ、出会うのが遅かっただけ」。
「これは遊びじゃなくて、真剣な恋」。
「奥さん(旦那さん)とはすぐ別れるって言ってた」
「人を愛することは悪いことなの?」
なぜお決まりのセリフが出てくるかというと、
不倫真っ最中の人というのは、
「不倫という重大責任と背徳感」というものから逃げるために
お決まりの正当防衛をしなくてはならないからです。
そして、お決まりの「激情の愛」へのパターンへと
ずるずる引き込まれていきます。
不倫をする人というのは、自分は生半可な気持ちで相手と
付き合っているわけではなく、本気で愛していると
「自分の防衛機制に思い込まされる」のです。
自分を守るためだけに働くシステムですから、
「他の人間は遊びで不倫しているだろうけど、
自分だけは違う。本気で相手を愛している」と
思い込まされます。
なので、その愛には必ず「正当化」がとても多く含まれますし、
ものすごく強情で意固地な愛になってしまいます。
愛しているから強い愛を唱えるのではなく、
正当化したいからとんでもなく強く愛していると思い込む、
ということです。
とんでもなく好きになったから快楽に溺れているのではなくて、
快楽に溺れたいというのが先に来ているので、
さらに不倫という一般的に見たらどう考えても非常識で倫理に反する
状況になっているため、
「とんでもなく好きなのだから、仕方ないじゃない」という材料を
どんどん自分の中に呼び込みます。
さも自分が「こんなに人を愛したことはない」というくらいの恋に
落ちていると思い込むわけです。
そして、すべてのエネルギーを相手の愛へと注ぎたいと
思うようになり、もっと美しく(かっこよく)ありたい、もっと独占したい、
もっともっと愛されたいと思うようになります。
不倫にはならなかった。不倫という大げさな問題ではなくただの時系列の問題。
「これは遊びではなくて、真剣な恋」→真剣な愛なのだから誰も自分の恋愛に文句を言う権利なんてない。遊びで不倫するほど酷い人間じゃない。
「奥さん(旦那さん)とはすぐに別れると言っていた」→そもそも破綻しているなら
奪っているわけではないし相手が離婚しても自分のせいではない。もし、仲がいいなら
自分の出る幕ではないんだけど、もう別れるんだったら次に選ばれるのは
自分なんだから付き合っていたっていいでしょう。
それに、奥さん(旦那さん)は家庭を顧みずに自分の好きなことばかりしていると
言っていた。そんな人なら浮気されて当然。
「人を愛することは悪いことなの?」→そもそも、誰かを愛することは自然なことなのではないの?
だから、自分は悪くない。
というところに最終的には落ち着きたいわけです。
「これだけ間違いなく、一途に愛している!」というのは、
心理的な防衛システムが「そうじゃなきゃただ快楽に溺れている悪事を働いている
だけの自分になるよ」
ということでどんどん自分を守ろうとするからです。
「これだけとんでもない愛情を持っている!これこそ真の愛情だ!」
というのは、それだけ強い愛情を持つことで自分が批判されない盾に
無意識にしようとしているだけです。
シンプルにいえば、不倫というのは「社会的制裁を加えられても
おかしくないほどの倫理違反を犯している」ということになります。
なので、その罪悪感から誰もが逃れたくなるのです。
罪悪感から逃れたいほど、こういう意固地な愛情がどんどん膨らんでいきます。
つまり、ストレスの回避能力が高い(それだけ心理的耐性が低く、
防衛機制に頼らなくてはならない)人ほど、
不倫に溺れやすいといえます。
不倫をすることでの罪悪感
これら防衛機制の機能が、罪悪感をも消し去ってしまいます。
不倫自体は家庭崩壊を招くとんでもない事なのですが、
その罪悪感を抱えていては不倫なんかできませんし快楽に溺れることもできません。
罪悪感があったとしても、それ自体すら
「自分を罰しているから、ただただ呑気に
恋愛しているわけじゃないんだから。
自分も辛いのだから」という正当化のために
生み出した罪悪感でしかないわけです。
ですから、「こんなに辛い思いをしているのに!」
と思っていても、
それは相手を可哀そうだと思っての罪悪感ではなく
ただただ自分を守るためだけの
罪悪感でしかない場合がほとんどです。
不倫相手の配偶者への敵視
不倫相手に配偶者がいる場合、
その配偶者に対して強く敵視することがあります。
これも、明らかに自分の行為を棚に上げて
配偶者に敵意を表している場合、
ただ自分の恋敵であるから敵視しているというよりも、
そこに「自分が悪者になりたくないから、相手を悪者だと思い込み、
結果敵意がむき出しになる」
という心理が追加されている場合が多いです。
「自分が不倫をしている」のをとにかく正当化したい場合、
相手の配偶者を「浮気されてもおかしくないような醜い配偶者」
に仕立て上げるのが簡単だからです。
「家事もしない、自分の結婚相手も大事にしない、
ただただ生きて独占欲だけで相手を縛るしかない醜い配偶者」
だと思ってしまえば、
自分は不貞行為をする酷い人間どころか「彼(彼女)を救いだす
救世主」として最強の正当化ができるからです。
相手の「自分の夫(妻)は全然話を聞いてくれなくて・・・」
という言葉を「やっぱりね!」とさっさと信じ込むのは、
信じ込んだほうが自分の心を守ることができるからですね。
不倫の恋しかできない人
相手がいる人しか興味がない、という人が世の中にいます。
そういう人に総じて言えるのは、
「現実問題に向き合う力がないこと」です。
そもそも手に入らないから、「手に入れられない」傷を
「自分の魅力がないから」ということにせずに済みます。
そういう人達にとっては「自分に価値がない」と思いながらも
実際に「本当に価値がないんだ」と思うような
そういう場面に直面することは何よりも避けたいことです。
不倫相手にフラれても、
「配偶者がいるからいつかは仕方のないことだもんね」と
思うことができます。
現実問題に向き合う力がない人は、
フラれた事実よりもフラれたのが「自分が魅力がないからだ」と思うことのほうが
よっぽど耐えがたいのです。
そして、激情の愛に溺れやすく、ハマりやすい恋愛中毒になったような人達。
不倫しかできない、相手のいる異性としか恋愛できない人と言うのは、
「そういう人のほうが魅力的だから!」と言いながら、
実際には上記のような防衛機制によるドーピングのような恋愛の
仕組みに溺れているといえるでしょう。
1対1で愛を育むとか、平凡な愛を好むとか、そういう現実的な愛は
現実的な問題に向き合える人でないと向かないのです。
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