どうしても他人の幸せが許せない、
なぜそこまで人が恨めしいのか?嫉妬してしまうのか?
という人に出会ったことはあるでしょうか。
「人の幸せを喜べない」というレベルであれば、
誰にでもあることですが
他人の幸せがどうしても許せない、幸せそうにしている人が
憎い、という心理がこの世には存在します。
今回は、なぜそこまで他人の幸せが妬ましく感じるのか?
ということについて解説していきます。
アイデンティティが確立していないと、人の幸せが許せない
まずは「アイデンティティの確立」という部分からお話していきます。
アイデンティティの確立とは、端的に言うと
「自分が自分であって他の何者でもないという確信」
と表現することができます。
字面で見るとなんとなく曖昧な表記のような気もしてしまいますが、
「こういう所が欠点なのも、こういう特徴があるのも、こういう過去がある自分も、
これから歩いていくであろう自分も、
これが好きなのもこれが嫌いなのも私であり、それでいい」
という「長所も短所もすべてを統合して、一つのまとまりが自分である」
と確信できるのがアイデンティティの確立です。
もっと具体的に言うとアイデンティティの確立に関しては
細かい要素があるのですが、ここでは割愛します。
アイデンティティの確立が何を意味するかというと、
「自分は一個の存在」だとみなしているので、
他人に対しても「他人は一個の存在。欠点を持っていても、
長所があっても、それが個性」だと思えるということです。
つまりアイデンティティが確立している人というのは、
自分の個性も、他人の個性も認めることができます。
逆に、アイデンティティの確立が為されていないことを
「アイデンティティの拡散」といいます。
アイデンティティの拡散というのは、その名の通り
まとまりがないため木を見て森を見ず状態になります。
どういうことかというと、
「自分の個性」も何も分からず、自分というものがどういう存在で
あるかも不明瞭になるため、
「〇〇が出来る自分は誰よりもすごい」とか「〇〇はできない自分は
人よりも劣っていて価値がない」とか
「過去があるけど欠点だから
消したい、自分の一部だと思いたくない」とか
「その一部だけを自分だとみなしてしまう」傾向にあります。
ですから何かが出来たときは特別に優越感に浸ったり、
逆にできないときは「こんなことも出来ない自分は価値がない」
とひどく劣等感を抱いて落ち込みます。
「その部分」にしか着目しないからですね。
「その欠点=自分を構成する一部でしかない」と思えません。
「その欠点=自分そのもの=自分自身に価値がない」
と思い込みやすいのです。
そして他人を見るときも、「その部分」だけを見て
人を判断してしまいます。
優劣で物事を判断するようになる
アイデンティティ、自我同一性が確立されないまま
大人になってしまった場合、何が起きるかというと
物事や人をすべて「優劣」で判断するようになって
しまいます。
自分がない人というのは、
物事を相対的に見るしかなくなってしまうのですね。
他人を相対的に見てしまう
相対的に、というのは「他と比べて」という意味です。
他との比較のうえに成り立つのであって、
他が基準になるのです。
この相対的、というワードがキーポイントになります。
「自分は人にランキングなんかつけません」という人でも、
自分がない人だと自然と他人と自分を相対的に見て
「優れているか?」「劣っているか?」ということにばかり
注目してしまいます。
この人よりも自分は優れているか?
この人よりも自分は正しいか?
世間に必要といわれるステータスを多く持っているか?
あの人から見て、自分はどの位置にいるのか。
そうなると、当然ですが
「幸せな他人」がいるということは
「それよりも不幸な自分=不幸でみじめな自分」
ということになります。
たとえば「結婚している人」と
「結婚していない人」であれば
明らかにパートナーがいる「結婚している人」のほうが
幸せということになる、
さらに「結婚している人よりも」「結婚して子供もいる人」のほうが
幸せということになる、
というのはまるで
「結婚していない人は結婚している人よりも負けている」
「結婚しても子どもがいなければ意味がない」
というような気さえしてくるわけです。
幸せが妬ましく感じる仕組み
他人の幸せは自分の幸せには無関係であるにも関わらず、
他人の幸せなニュースを聞くと
「自分って、みじめ」
というような感情に晒されてしまいます。
更に、そういうみじめな感情にさせた相手に対して
「恨めしい、絶対に許せない」という感情を抱くことすら
あります。
自分の自我同一性が確立していないがために
他人を比較対象にするしかなくなり、
他人を順位づけてしまい、自分より幸せそうな相手が
まるで自分を蹴落としたように感じ
許せないだけなのに、
それを「意図的にやっている」「こちらに競争を仕掛けている」
と感じてしまうからです。
それが、嫉妬心の正体です。
たとえば、
「自分は美容整形をしたいと考えているが、
周りが美容整形を考えていたり、美容整形が年々
増えているという情報を聞くと自分以外の人間が
美しくなるのが許せない、腹立たしく感じる」
というような感情は、完全に周りを比較対象としてしか
捉えていません。
もちろん、人間は他人を完全に「自分と切り離した存在」と
してみることはなかなかありませんが、
それでも比較対象としてしか見ることができないということは、
他人の幸せ=相対的にみて自分は不幸である、
というような結論しか導きだせません。
そしてその幸せそうな人物はわざと自分に対して
幸せであると見せつけているのだ、と
それに対する怒りを表出してしまいます。
まるで、ずっと競い合うのが宿命かのように。
「幸せは悪いこと」だと感じる
度が過ぎてくると、
「幸せだとか感じること自体がバカバカしい」
「世の中には苦しんでいる人達がいるのに、
そういう人達を差し置いて配慮がない」
「幸せそうな様子を見せること自体が罪」
と感じてきてしまいます。
「そういう人達」というのはつまり自分自身のことなのですが、
「自分に気を使えよ」とは言えないので、
自分のそういう願望を「みんなを差し置いて幸せになるのは、
あなたが間違っているよ。まず周りを見ようね」
というアドバイスに置き換えるのです。
そういう精神状況になると、
他人の結婚や妊娠、たちまちお祝いごとなどが
とても愚かなことのように感じてきてしまいます。
「バカ騒ぎして」
「人の苦労も知らないで」と、
他人がとても楽をしてズルをしているような気分にさえ
なってしまいます。
ただそういう人ほど、自分に幸せが舞い込んでくると
「相手よりも自分のほうが幸せで価値がある」という
優越感を抑えきれず、
周りに必要以上に表出してしまうなど
一貫性のない言動をとるようになります。
美人は性格が悪い?
人の幸せが許せないという人は、
見るからに「優れている人」を嫌います。
それは、形としての「結婚をしている」
「パートナーがいる」「権力がある」
という立場だけでなく、
「顔立ちが整っている」というような容姿についても
妬みの対象になります。
妬み、つまり畏怖の対象ということですね。
何にたいする恐れかというと、
自分の順位が脅かされることに対する
恐れです。
美人はそれだけで得をしていて、
美人はとにかく苦労知らず・世間知らずだから
性格も悪いはずだ。
ただただ化粧が濃いからそう見えるだけだ。
と、そういう考えも、ひときわ強くなります。
「性格が悪いはずだ」とか
「メイクが濃くてそう見えるだけだ」というのは、
そう思い込むことでバランスを取らないと、
相手を責めたり卑下することができなくなってしまうからです。
人の不幸は、蜜の味
人間の心理として、
どうしても相対的に物事を考えてしまう部分は
あるのですが、
その特徴が強い場合には、
「人の不幸話を聞くと、安心する」という心理が
強く働きます。
それは、他人が実際に明らかに不遇な状況にあることが
伝わると、やはり「相対的に」自分は恵まれているのだ、
と安心することができるからです。
人の幸せな話を聞くと、
「幸せだなんてのんきだな」
「何も世間を知らないんだな」と感じて自分の心を守り、
人の不幸話を聞くと
それ自体が自分の心を守ってくれるということですね。
ただ、この世には大勢の人間がいますから、
相対的に生きる人生を続けていると、
その場しのぎの安心を得ることができるだけで、
本当の幸福は得られないといえるでしょう。
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